ジェネレーション・ギャップ (哲祥)

10時過ぎくらいの大井町線東横線に乗ると(寝坊)、よくベビーカーを連れた人に出会います。赤ちゃんは超かわいい反面、その親が超けばかったりもします。というか、たぶんベビーカーを引いていなければ「母親」とは分からない。
私たちは最後の昭和世代。今高校生している人たちは平成生まれ。
たった5年ほどとは言え、有人改札の記憶がないとか昭和天皇崩御を知らないとか色々とギャップがありますが、たぶん最大の格差はそういう有形的なものではなくて、文化的なものとして存在している気がする。
その一例が「母親像」だと思う。
柔和な顔で割烹着を着て、湯気の立つ鍋の前で音を立てながら野菜を切り、時々近所に立ち話をしにいく。そんな光景は、もう、漫画やアニメの中にしかない。
そのボーダーがうちらの世代ではないだろうか。
茶髪で、きちんとメイクをして、綺麗な服を着て、ブーツとか履いちゃって、そしてベビーカーをひくその姿は、どうも私の頭の中にある「母親」という概念とは乖離しているのです。
しかし一つ下の世代ではおそらくそこには乖離がない。

この急激な相転移がその溝の間には横たわっている。