建前考 by Ran

もっとすばらしい考察がたくさん書いてありそう

じゃあ振るなよ!
 
という本音を押し殺し、何事もなかったかのようにレスポンス。しかしその内容はタテマエに失するものではない。なぜなら今本音を言ったから。全然押し殺していないから。本音をさらけ出しているのになんで今更建前を言うわけがあろうか。しかし、いやむしろ、本音を言った瞬間から、以下の記事は否応なく建前になってしまった。以下の記事の内容はまだ決まっていないのに、それが建前であることは決まってしまった。なぜなら読者は本音を既に聞いているから。「じゃあ振るなよ」という本音を聞いている以上、返答・回答にあたる記事を書けば(振られたことに対し反発していないことになるので)それ即ち建前であるというのは道理。しかしこれから書くことは、嘘っぱちであるどころか、むしろマジメにシビアに考えたことなのだ。しかるに、それは建前であるという。そんな筈はない。自分の思うままを書くのだからやっぱりそれは本音なのだろう。ということはむしろ、「じゃあ振るなよ」という方こそが、実は建前なのかもしれない。その建前でクソマジメな本音を隠すことによって、わたしは、賢しい・的確・鋭いツッコミ・スマート・反抗的・征服欲をそそられる などという評価を得ようとしただけなのかもしれない。
 
「じゃあ振るなよ」も本心。レス記事(これ)も本心。
わたしは単に、「じゃあ振るなよ」と思いながらもこれを書いているというだけです。たまたま、その二つが矛盾する性格を持っていると言えなくもないというだけ。
ここでわたしは、「じゃあ振るなよ」を【本音】、レス記事を【建前】と名づけます。
なぜなら、二つの相対する本心のうち、この場に相応しいのがレス記事だと判断したからです。だからこれを書いてる。
もしわたしが、「じゃあ振るなよ」を【建前】、レス記事を【本音】と名づけるなら、「じゃあ振るなよ」の方がこの場に相応しいと判断したということです。その場合、恐らくこの記事は書かれず、引用と最初の1行とでわたしの記事は終了でしょう。あ、そっちの方がラクだったな。
 
つまり、その場に相応しい方が建前。そうでない方は(ほとんど機械的に)本音。本音と建前の使い分けというのは、そういうことだと思います。それができるのは、確かに状況判断能力のある大人だろうし、それはオトナとして必要と言ってもいいかもしれません。
重要なのは、建前にとって「嘘」は必要条件ではないということ。本音と建前の両方を提示された・あるいは推察できた者にとって、両者の共存が理解できれば(両方本心なんだということがわかれば)、建前は嘘ではないから。共存しない本音・建前を言うのが【両者を統合できない者】であり、建前に嘘を交えてしまうのが【裏表のある者】であるというわけ。
 
だらだらと長い文章になったのは無能ゆえではなく眠いからです(建前)。